ちょっと前、母と大戸屋に行った。行く途中、いろんな事を考えた。なんで津田沼にあるお店ってチェーン展開しているお店ばかりなんだろう。ここには個性的な店もなければ、温かみのある店も、ほとんどないじゃない。このままではこの街から個性的な文化なんて生まれないのではないか。ではどんな街になって欲しいのか。ヨーロッパにあるような職人工房がひしめいているような街も良いが、やっぱり日本では昔ながらの個人商店がぎわっている商店街が理想だ、なんて思っているうちに、目的地の大戸屋に到着したので入店した。母はメニューを見てすぐに、注文を決めたという素振りを見せたので、焦った。なんで焦ったかというと、僕は大戸屋に来る時はいつも「チキン母さん煮定食」を頼むって決めているのだけど、今回「チキン母さん煮定食」を頼めば、店員に「こいつ、母さんと一緒に大戸屋に来て、母さん煮定食頼んでるよ」と思われてしまうと深読みし、選択肢からはずしてしまった為に、何を注文すれば良いかわからなくなってしまったのである。結局、さんざん迷ったあげく「地鶏の親子丼」を注文したオレ。しかし、食べ終わった後に、親子丼の親子性に気づき、恥ずかしくなった。数あるメニューの中から、なんでわざわざ紛らわしいコンセプトのものを選んでしまったのだろう。帰り道はその事について考えた。脚本家の松尾スズキによく似た友人がいる。その友人とファミレスに行くと、周りから松尾スズキの話が聞こえて来ることがよくある。ファミレスの客は、友人の顔を見て無意識のうちに松尾スズキモードになってしまい、つい松尾スズキの話をしてしまうのだろう。このように、何かを認識した瞬間、もしくは認識したかすら気づかないうちに脳みそが反応してしまうことは誰にでもある。隣人の言った言葉と同じ言葉を発してしまうなんてのは勿論、過去に見聞きした事のあるものに影響されてしまうのなんかも、同じ松尾スズキ現象かもしれない。そう考えると脳みそはすごい。自分の行動すべてが、松尾スズキ現象によって操作されている気にすらなる。考えてみれば、教育なんて松尾スズキ現象の中長期的展望バージョンじゃないか。物事の本質がどうだとか以前に、すべての事象に対して脳みそが自動的に反応するよう仕込まれているんだ。でも、だとしたら僕らは何の為に生まれ、生きているのだろう。行動が自動的に行われているなんて、カッケの検査で反応する足のようではないか。そんな、足のような人生なんてマッピラだ。と思うけど、その反応すら、カッケの検査で反応する足のようだ。というその反応すら、カッケの検 査で反応する足のようだ。キリがない。と、思った所で小便がしたくなり、コンビニに入った。小便がしたくなるのは生理現象だから松尾スズキ現象とは違うと自分に言い聞かせながら、チャックを下ろし、続きを考える。松尾スズキ現象に気づいた時は、それに対してどう反応するかが個性の見せ所だ。例えば、気づいていながらも、逆の行動をしたなら、その姿は滝を登る鯉のように美しいのではないか。でも滝を登る鯉という発想自体、松尾スズキ現象の賜物だから、普通に登るだけではカッケ検査の足だ。それは嫌だ。と思いながら、小さな滝のような小便を、なんとも不思議な様子で登る鯉の姿を思い浮かべた。

(2006年、アーティストステイトメントより)